【昭和】が終わり、時代が【平成】に変わる頃、
文京区の関口(江戸川橋駅の近く、旧文京第五中があった場所のすぐそばです)から隅田川を越え、
「江東六区」と呼ばれた下町の方へ向かうのが、私の会社での日常でした。
その際、はじめに教わった靖国通り~京葉道路(両国橋)経由のルートでなく、
気持ちのおもむくままにたずねてたのが、こんにゃくえんまから言問通りを抜けてゆく、この道でした。
25歳過ぎの、若かりし日々のことです。
中でも特に心惹かれたのが、
ちょうど今S教室のある本郷六丁目、西片二丁目にはさまれたカーブのあたりでした。
このようなことが、あるものなのですね。
それから15年近く経って、偶然同じ場所で塾を営むこととなったのです。
また、あとでわかったことですが、
私の短歌の師(株式会社画文堂社長、『歌人舎』舎主の鈴木實先生)が、
戦前『桜草』という同人誌で短歌を書いていらした頃、
その主宰であり若くして亡くなられた福島源次郎という方が、
誠之小学校のご出身という奇縁もありました。
「言問通り」は厳密に言えば、本郷弥生交差点以東を指すもののようです。
従って文京区内は比較的距離が短く、『言問だんご』さんなど台東区内の方が有名なのかとも思われます。
ただ私は言問通りの全線、中でも隅田川にかかる言問橋の風情にも、強く心を惹かれました。
言問橋については、東京大空襲の際に大勢の人が亡くなられたという、忘れてはならない悲しい歴史があり、
時おり生徒から塾の命名の理由を聞かれた時には、そのことを語ったりもしています。
さらに25歳の時に、次の一首を詠みました。
言問はば君の名おもふ橋のうへただ白くある冬至のひかり(歌集『予後』所収)
『伊勢物語』中の秀歌には及ぶべくもありませんが、このような言問通り、言問橋との「縁」と思いから、
自分自身の半生を懸ける場所として、
「言問」の語を使わせていただくことにしたのです。