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言問だより

【 平成十五年 師 走  】
 
目ざましい学校改革

私学を先頭に現在進行中

「前号の「学校訪問シリーズ」では文京区内にある郁文館学園の大きな変貌ぶりをご紹介しましたが、同校に限らず、全国の私学を中心に学校改革が盛んです。その理由としては、二つの大きな要因が挙げられると思われます。
まず一つには、生徒数が昭和六十一年(一九八六)以降減少しつづけている「少子化」の現状です。一例を挙げると、昭和六十一年に約二百万人であった新中学一年生の生徒数が、十五年後の平成十三年(二〇〇一)には約百三十万人にまで減少した*1のです。単純計算で、十五年間に七十万人、三十五%の減少を見たわけですから、この間概ね、年平均四万人強、三~四%ずつの生徒減が進んだことになります。数年後には、大学の志願者数と定員が一致する「大学全入時代」が現実になるという試算も報じられており、経営体としての私立学校が、その存続をかけて特色を強化しているのであろうことは、一面誤りない事実でしょう。この点で、実際に入学を検討する生徒父兄のみなさんは、その本質的な部分をよく見きわめて、希少にして貴重な人生の選択の一機会を、正しく判断する必要があります。

そしていま一点は、「ゆとり教育」から「学力重視」への方向転換がちらつきはじめた、現在の教育実態、教育環境による必然性の問題です。現指導要領が実施される二年前、平成十二年(二〇〇〇)に、小学校の教科書の部分改訂が行なわれました(新指導要領への移行措置を含む)。その当時から、学校の先生たちをも含めて、「完全週休二日の授業時数と予定されている指導要領の内容では、子どもたちの将来はどうなってしまうのだろう」という声が、しきりに上がりました。円周率を3・14ではなく「3」にすることも一時期実際に行なわれ、すぐまた3・14に戻されたことなども、記憶に新しい事実です。このような教育実態への問題提起、将来への危機感から、各校が従来の建学精神に加え、新たな指導方針、教育理念を構築しているのだということも、見落とすわけにはいきません。本紙でも後者の方をより重視しておりますし、東京都内では都立の高校も、それぞれに特色のある改革を進めています。生徒父兄のみなさんも、その学校が何を一番重点に据えて

いるのか、そしてそれが本人のためにどうプラスになるのか、その点をしっかり見抜くことが大切なのだと思われます。(2面につづく)

未来をになう子どもたち

昭和六十一年(一九八六)に生徒数のピーク*2を迎えた新中学一年生。この世代は、第二次ベビーブームの世代であり、現在三十歳前後の年代になっています。まさに今後働き盛りとなる世代なのですが、ここをピークとして、その後は社会の働き手たちが減少をつづけることになってきます(「少子化」の実社会への後追い現象)ちなみに今年の二十二歳の人口は約百五十万人。十五歳では百三十万人にまで減っています*1 。そして二十年後、三十年後の世の中を担うのは、まさにこの十五歳前後、いまの中学生・高校生たちの世代なのです。彼らがこの国の中心的な働き手になる時、どのような社会がそこに営まれることでしょう。願わくは、数は少なくとも中身の濃い担ぎ手に、輿(こし)は任せたい。その鍵を握っているのは、いま現在の「教育」にほかなりません。

 第2回「智恵子抄」を読む

九月二十三日(火)、秋分の日。
会場を本郷三丁目の『三喜亭』(東大前教室協賛店)に移し、高村光太郎の詩集『智恵子抄』の朗読会を開催しました。彫刻家であり、また詩人として口語自由詩の父とも呼ばれる光太郎は、福島県油井村出身の長沼智恵子を妻とし、駒込林町(現在の文京区駒込5―22―8)のアトリエで「たぐひなき夢」の暮らしをむすんだ、文豪の史跡ゆたかな文京区でも欠くべからざる存在です。また光太郎の激しく膨大な精神活動の領域の中で、『智恵子抄』は、「悲しみを光と化」したような光太郎と智恵子の愛の結晶として、不朽のかがやきを放ち、いつまでも読みつがれ語りつがれるべき名作であるにちがいありません。東大前教室文化イベントの文学篇第一回としてふさわしい内容のものであったと自負しています。最年少を小学五年生(荻窪から参加)とする参加者各位からは、「日常で得る機会のない体験をさせてもらった」との評価をいただきました。

「藤 前 干 潟 」

文京区立の中学校で現在三年生が使っている「公民」の教科書にも載っていますが、愛知県名古屋市の西南部に、『藤前干潟』という干潟(ひがた=干潮時に砂地があらわれる遠浅の沿岸部)があります。伊勢湾の最奥部に位置するこの干潟は、日本有数のわたり鳥渡来地として知られていました。
ところが、干潟を擁する名古屋市では、二百十万人の市民が排出するごみの処理にあたり、岐阜県多治見市にある処理施設の限界が近づいたため、この藤前干潟を埋め立てて処理場を建設する計画を立てました。問題が公になったのは九〇年代の初めのことです。

この計画に対し、地元の環境保全運動グループや野鳥愛好家のグループなどが、こぞって反対の声を上げました。その運動は、署名やデモ行進、新聞雑誌等への呼びかけにとどまらず、折りからの名古屋市長選挙に反対運動のリーダーが立候補するところにまで及んだのです。熱く粘りづよい反対運動が実を結び、とうとう計画は撤回されました。市民運動が公共事業の全面中止に結びついた、希少な例のひとつです。

このことは、二十一世紀を生きる私たちに、何を語っているのでしょう。理のあることを、正しく粘りづよく訴えかければ、不可能と思われることでも成し遂げられる。これが一つでしょう。そしていま一つ、現代社会が容易に解決できない大問題、ごみ処理について、ごみそのものをなるべく発生させない、可能な限り資源を有効利用する。そうしたことの生きた事例として、心に響いてくるのではないでしょうか。

Vol.2 「敵に塩を送る」

甲斐の武田信玄が駿河の今川、相模の北条から経済封鎖を受け塩の流通を止められた時、最大の敵だった越後の上杉謙信が武田方に塩を送った故事により、謙信が正々堂々、武の戦いのみに徹した美談として知られています。塩が送られたのは事実であり、謙信の性格から考えても妥当なことのようですが、一方で、越後の製塩業者が甲斐、信濃との交易に拠るところ多く、塩を止めることが彼らに打撃を与えるという、上杉内政の経済的背景もあったようです。
*成美堂出版『武田信玄』土橋治重著 参照

~はじめての甲府 ~みすずかる信濃①

甲府ヘ旅した漂情先生がつぎにあこがれたのは、甲州の先にある信州、いまの長野県でした。はじめて行くことができたのは、甲府を訪れてから一年後。大学の文学研究会の合宿で、八ケ岳にある学寮に滞在しました。高校時代に愛読していた詩人立原道造の、高原の夢の世界に触れる思いで、高い空や白い雲、草の香りに親しみました。八ケ岳や甲斐駒ケ岳のうつくしい山容(さんよう)に心をとらえられたのも、この時です。

前号、前々号の甲州と、そして信州。とりわけ八ケ岳を中心とした甲信国境(こうしんこっきょう)の一帯は、漂情先生の「心のふるさと」になりました。想い出は、数え上げればきりがありません。

いま塾の仕事をしていて思うのは、中央線沿線の荻窪で生まれ育った少年時代に、この甲信地方へのあこがれの源流が、出来上がっていたのだろうということです。少年時代の漂情先生は、中央線の線路を西に向かって走ってゆく特急「あずさ」や急行「アルプス」を、毎日のように目にしていました。おそらく意識の底で、それらの電車の行く手に対するあこがれが、芽ばえていたのでしょう。その体験が、自由奔放な青年時代に、甲斐・信濃を旅することにつながったのだと思います。みなさんにも、きっとそうした「何か」との出会いが待っているでしょう。

ちなみに「みすずかる」は「信濃」の枕詞(まくらことば)。この広くて深い信濃へは、すこしゆっくり旅してみましょう。 つづく

その二.「久留宮さん」

「旅」というのは、すこし事実に反するかも知れません。かつて五年間住んでいた、名古屋市名東区での出会いです。
久留宮さんは、「フランス家庭料理の店 プチピクリ」のオーナーシェフ。もう二十七年も、名古屋の山の手でフランス料理一筋に腕をふるっています。
久留宮さん評するわたくしは、「半分お客で半分飲み友達」。五年の間にずいぶん通ったものですが(マナーもワインも、ここで教わりました)、ほかにお客のいない時、いつも最後は酔っ払って、ワイン談義、酒談義になりました。東京へ帰った後も、新婚間もない家内を連れて行ったりしました。

その久留宮さんとの年に一度の電話会談が、毎年十一月の第三木曜日。そう、ボジョレー・ヌーヴォの解禁日です。牽牛と織女よろしく、今年もひとしきり、ヌーヴォの評価に花を咲かせました。前評判にたがわず☆☆、特にボジョレー・ヴィラージュは、男性飲んべ向きということで意見が一致!今年のご報告としておきます。

横断は、目の前の信号が青になってから!

「学校にちこくする」「ピアノのおけいこにおくれる」「塾に間に合わない」

いそぐことは、だれにでもありますね。でも今はしっている車の方の信号が赤になっても、すぐにとび出してはいけません。おくれてとばして来る車もあります。目の前の、自分のわたる信号が青になってから、左右をたしかめてあるき出しましょう。塾の前の信号は、歩行者専用(ほこうしゃせんよう)です。誠之小や、児童館の方からの車にも、よく気をつけてわたりましょう。

高校無償化について

自衛隊のイラク派遣をずっと危ぶんでいましたが、とうとう二人の外交官が尊い命を落とされるという、悪しき事態が現実のこととなってしまいました。公務であり、
自ら信念を持って現地での活動に当たっておられた様子ではありますが、残されたご家族のこと、また国の針路がちがう方向であればあるいはこうした事態は避けられたのではないかということを考えるとき、一人の人間としてお二人の死を悔やむ気持ちで一杯です。
ご冥福をお祈りするばかりです。
私たちは、これから思考力や人間性を高めてゆく年頃の子どもたちと、身近に接しています。どのようなテーマに対しても、自分の考えを持ち、必要のある時は発言する、そういうことのできる人間に育って欲しいと思います。それが本人のためであり、世の中のためにもなると信じるからです。

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漂うことば

われにむかひて光る星あれ冬到る街に天文年鑑を買ふ

意味

(作)荻原裕幸 

「冬到る」とは、冬がやつてくる、あるいは冬が深まるころ。季節はいままさに、冬至の直前である。冬の寒さがいよいよ身にしみる時、青年は街の書店で天文年鑑を買い求め、自分を照らす星が存在することを願う。彼が心の奥底でこいねがう星とは、何なのだろうか。読者をひきつけるロマンがここにあり、「天文年鑑」に象微されるスケールの大きさが、さらなる魅力を感じさせる。歌集『青年霊歌』所収、作者初期の代表作。

漂うことば

師 走(しわす)
陰暦十二月の別称。一般的には、年末で先生(師)も走り回るほど忙しいためであるなどと言う。極月、氷月、春待ち月などの呼び名もある。大人たちは何かとあわただしく、子どもたちにはクリスマスやお正月など楽しみが多い時。

漂うことば

Class.2
「毛(もう)」の字の秘密

群馬県を代表する新聞は、「上毛(じょうもう)新聞」。群馬の特色をかるたにした「上毛かるた」などもあり、一般的に群馬=「上毛」「上州」という呼び方が根づいています。
一方おとなりの栃木県は「下野(しもつけ)」と呼ばれることが多いですね。そしてこの両県を東西に結ぶJR線は「両毛(りょうもう)線」。両方の「毛」とはこれいかに?さあ、この謎を解いてみましょう。
前回の答え=駅のある県が多い(24)/ない県(23)~来年2月まで