〈リニューアル版発行のご挨拶〉
前号(Vol.13 )を発行(掲載)してから、たいへん長い時間が経過してしまったことを、はじめにお詫び申し上げます。平成15年10月の創刊準備号以来、不定期ながらの小紙の発行をお待ち下さっていた方々からは、ご心配とご叱責のお声もいただきました。ほんのわずかな紙面とわずかな発行部数・配布地域の中で小紙の記事に目を向けて下さり、励ましのお言葉をかけて下さる方々がいらしたことは、執筆兼発行者にとって、この上ない喜びです。 教育情報〈紙〉として本紙の発行を始めた身には当初想定もできなかった、「紙媒体」から「Web媒体」への根源的で大規模な移行は、本紙のあり方にも大きく影響しました。その中でも、特に瞠目したのは、「紙媒体は(保存していただけなければ)一回限り、それに対してWebは恒時的」であることです。言問学舎ホームページの〈ブログ〉に詳細を記してありますが、平成15年当時の記事について、平成23年の今年になってから、思わぬ反響をいただいたのもその一つです。
ここに、『言問だより』は、「定期刊行物」としての使命をWeb版にゆだね、かつ一方で「紙媒体」としての価値をも存続すべく、リニューアルした次第です。「定期刊行物」であるため、従来は「定価」を付しておりましたが、Webにおいて「課金目的」の考えはありません。この間の事情を調整するため、今号より紙媒体=折込版では定価表示を廃しつつ、Web版同様横書きに改め、また言問学舎案内広告と一体化の形にさせていただきます。ご理解をお願いするとともに、今後一層のご愛読をお願いするものであります。そして、より現場~日々子どもたちの姿を目の当たりにする教師の日常~の視点から、生の感覚による、現在の生の教育の情報をお伝え致します。ご期待下さい。
小学校での「指導要領=教科書改訂」後の実態について~生徒たちの様子から
事前に予想した通り、4年生・5年生の算数が、教える側も教わる側も、大変なようです。これは「履修内容の多さ」「計算問題の難化(例えば、整数で2ケタ同士あるいは3ケタ×2ケタの計算を主体としていた子が、小数では17.3×12.1等、数字3ケタ同士の計算を求められるケースなど)」が主因です。
小学生の勉強は、大体2年生までは極端につまずくことは少なく、おおむねスムーズに進みますが、3年生、4年生から、難しくなるものです。特に新指導要領下のお子さんたちは、難度が高くなる直前段階の「3年生」初期の勉強に、力を入れる必要がありそうです。
国語では、「日本人の心」を学ぶという視点から、各学年で古典(漢文を含む)・詩歌が取り入れられました。学校でもさかんに読んで、生徒はみな子どもらしく、柔軟になじんでいる様子です。そのことが子どもたちにどのような(指導要領および教科書改訂の)効果をもたらすかについては、しばらく観察する必要があることでしょう。
平成24年度からの中学校教科書改訂では「社会科」に注目
来年4月からは、いよいよ中学の新指導要領が実施となり、改訂された教科書が使われます。地元の文京区のみなさんにお知らせしますと、数学で長く使われてきた啓林館版から東京書籍版へ、英語は三省堂版『ニュークラウン』から、学校図書版『トータル イングリッシュ』へと、大きな採択変更が行なわれることとなりました。
教科ごとの内容に関して述べますと、数学・理科はすでに平成21年度から、段階的に新指導要領への移行措置が実施されていますので、「教科書」そのものの変更内容は大きいですが、いま使われている「補助教材」を合わせた形で考えると、際立って大きな変更というものはありません。教科書ごとの特徴はありますが、「今から新しく勉強する子」にとって重大な心配はないと言っていいでしょう。
むしろお伝えするべきは、「社会科」での大きな変更です。現在五十代前半以前の人は、「地理」「歴史」「公民」という教科書を、中学の三年間で勉強して来ました。来年からも教科書自体は変わりませんが、ずっと、1年生、2年生で「地理」「歴史」を履修し、3年で「公民」という形だったのが、来年からは、3年1学期まで歴史を扱うことになっています。先生の専門により「歴史と"政治"」「歴史と"経済"」を併せて学ぶケースも、出て来そうです。
もっとも理数系の移行措置対応同様、すでに準備に入っている学校も多いようです。文京区内のいくつかの中学では今年から、それに準じた形で授業が進められています。中学校の指導実態の大きな変化ですが、かつて週休2日制以前には1・2年次に地・歴をほぼ終えていたわけですから、このことが「中学生への社会科教育」のためにどれほどの<改善・向上>となるか、注視する必要も大きいです。
例えば日本国憲法を教えるには、改正される前の大日本帝国憲法の条文や特質だけを教えるのでなく、それが作られるに至る日本の状況、および世界の状況(日本が開国から富国強兵の道を歩んだ背景である)を併せて考えることが不可欠です。生徒が「社会科」への関心を深め、将来自分の考えを持つための土台として、しっかり勉強してくれることを願います。
東日本大震災という、まったく想像もできなかった大災害に根底から意識を変えられた一年が、まもなく暮れようとしています。 「自分にできる何かをしよう」と、多くの人たちと同じように私自身心がけたことが、どれほどできたのか、まだ振り返る時が来ているとは思いません。年が変わっても、どれほど時間が経過しても、「為すべきこと」は継続して実行しなければならないからです。
福島にまだ一度も足を運んでいないことが気にかかります。天災と人災を峻別すること、歴史を知り、未来のために「考える」こと、そして何よりも「現実を知る」ことの上に、己の為すべきことを組み立てて行く必要を感じるからです。
Vol.1 「二階建て新幹線①」
九月十六日、東海道新幹線を十八年間走りつづけてきた二階建て新幹線(一〇〇系電車)が、最後の営業運転を終えました。昭和六十年(一九八五)、それまで開業当初からの0系電車の独壇場(どくだんじょう)だった新幹線の世界に衝撃的なデビューをし、二階席のグリーン車や食堂車、そして個室グリーン車など特別な設備で「新幹線のもっとも華やかな時代」を作り上げたといわれる個性的な車輌でした。
最近では、最高時速二百二十キロという足の遅さ(!)がネックとなり、(ほかの形式はすべて二百七十キロ以上)、ダイヤの関係上からも、早期の引退を余儀(よぎ)なくされていたようです。
七月十四日朝、言問だより取材班は朝の東京駅に、引退間近の一〇〇系電車をたずねました。なつかしい二階建てグリーン車(写真右)、今見ると0系に通じるところのある前頭形状(写真左)など見るにつけ、あまりにも早い別れの訪れが、いまだに信じられない思いでした。七時十三分、新大阪行きの「こだま四〇五号」は定刻どお
りに東京駅を発車。グリーン個室の想い出をあれこれ思い返しながら、去りゆくものとの別れの時を惜しみました。
ただ一〇〇系電車が引退したのは、東海道区間のみ。山陽区間ではまだ健在で、そこには大先輩の0系も頑張ってます。
~はじめての甲府 ~はじめての甲府①
いまを去ること二十数年前の夏休み、当時高校三年生の漂情先生は、ひとりで甲府の駅に降り立ちました。日帰りだけど、はじめてのひとり旅です。いまとちがって、まだ駅ビルもない昔ながらの甲府駅についたのが、朝の八時四十分過ぎ。会社へ向かう人たちでにぎわう駅に、少し興奮気味で旅の一歩を記しました。この時先生は十七歳です。
その日乗って行ったのは、急行「アルプス1号・こまがね1号」という列車。当時国鉄(いまのJR)は、ちがう行き先の列車が途中まで一緒に走る「併結(へいけつ)運転」を数多く行なっていました。現在の山形新幹線や、秋田新幹線のような方式です。漂情先生の乗った列車も、長野県の辰野(たつの)駅で切りはなし、大糸線の信濃森上行きと、飯田線の天竜峡行きとに分かれることを、車掌さんが車内アナウンスで告げたのです。
そのアナウンスを聞いた時、漂情先生の心の中には、まだ見ぬ土地、未知の世界へのあこがれが、大きくひろがりました。今日は甲府までだけど、いつかもっと遠くまで、行ってみたい。自分の中で、なにかが変わった瞬間でした。
つづく
自転車は暗くなったら ライトをつけよう!
「見えるからいいや」「ダイナモで重くなるから」そう言って、無灯火運転していませんか?あぶない、あぶない。それはとってもおそろしいこと。
こちらからは見えていても、車のドライバーからは無灯火の自転車がよく見えません。けがをせず、毎日元気に過ごすために、うす暗くなってきたと思ったら、かならずライトをつけましょう。
はじめまして。いささか関わりのある、この本郷言問通りに身をおくこととなりまして、地域の皆様にご縁をいただければと願いつつ、『言問だより』創刊準備号をお届けする次第です。
ここ本郷は、東京大学の直近に位置し、そのため明治の昔、「高等下宿」が繁盛したと漱石の小説などにも書かれた土地です。本教室でも先般「『智恵子抄』を読む」を開催しましたが、文学ほかさまざまな文化、あるいは明治の文明開化の息づきを、そこかしこに感じることのできる土地だと言えるでしょう。
この言問通りにあって、小紙『言問だより』
を発刊できること、それはわたくしにとってこの上ないよろこびです。皆様のお心にすこしでも近づけるよう、一歩ずつ歩みをすすめてまいりますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。
(漂)