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言問だより

【 平成十六年 睦 月  】
 
育てることと、教えること

「育児」と「教育」の近似性

一昨年、二〇〇二年一一月二四日発行の『Yomiuri Weekly(週刊読売)』に、こんな記事が載っていました。タイトルは、「急増警告 妻たち『心の破綻』」。長い不況の嵐にさらされる中高年サラリーマンの自殺やうつ病などが多く取り沙汰される中、特に二十代半ばから四十代半ばの年齢層で、女性たちのストレスや心の悩みが、深刻さを増しているという内容です。それも家庭の主婦、すなわちお母さんたちの「育児」に関するストレスが、その主たる要因になっているというのです。同誌に挙げられた例を引用しましょう。

① 三十三歳の専業主婦

二十代までは会社勤め。几帳面な仕事振りで重用され、結婚退職の際も「あなたに辞められたら困る」と引きとめられた。しかし、「結婚したら、主婦の役割を精一杯果たしたい。中途半端はいや」と考え、やるからには完璧を目指す、と決断した。

やがて長男を出産。育児には十分に手をかけた。その長男が幼稚

園に通い始める頃、次男が誕生。乳飲み子と幼稚園児の両方の面倒を一人で見ることとなり、体調が崩れていった。長男を遊びに連れに行きたいと焦っても、体がだるく、動かない。「母親失格」ではないかと思いつめ、そのうちに「長男の発育が遅いのでは」という心配が加わった。心身ともに限界に陥り、訪れた病院で「神経衰弱」と診断された。

② 三十八歳の専業主婦

公立小学校の学校選択が可能になったため、評判の悪い地元の学校でなく、電車で通う隣の校区の名門小学校に長男を入学させた。長男は元気に通学するが、度重なる学校行事とPTAの会合で、本人がつまずいてしまう。隣町の見知らぬ人の中で発言するプレッシャー、そして「子どものために全部出席するのが母親のつとめ」という責任感が、彼女を追いつめた。あるとき、長引く保護者会の席上で、突然息が苦しくなり、心臓がドキドキして「死ぬんじゃないか」と思った。次の会合の日は怖くて電車に乗れず、次第に家から外出する事もできなくなってしまった。診断は「パニック障害」とされた。

これらのケースは突出した例だと思われますが、多かれ少なかれ同じような思いをされているお母さんは多いでしょう。そしてまたこうした悩みは、われわれ学習塾という立場の者たちにとっても、無縁の出来事ではありません。なぜなら「教育」は、家庭にあっては「育児」の大きな部分を占める要素であり、われわれの存在はその上に成り立っているからです。これを他人事とは言えません。

学習塾は、むろん子どもたちの学力を向上させるのが第一義です。しかし、子どもを教える、預かるという事は、子どもたちとの間にコミュニケーションを作り上げる事でもあります。そして保護者との間にも、十分な意思の疎通、気持ちのやりとりがなされなくてはなりません。その意味で「育児」の中に大きなウェートを占める「教育」の心的負担を軽くする役割を、学習塾はとくにお母さんたちに対して持っています。家庭の経営、すなわち家事、家計のやりくり、ご主人のサポート、子どもの面倒、学校の行事等々・・・さら
に子どもの勉強まで見なければ、と頑張りすぎては、まいってしま

第3回「聴く、歌う 上海帰りのリルと津村謙」

昭和二十六年(一九五一)、日本全国に哀感と共鳴の渦を呼び起こした流行歌『上海帰りのリル』。その曲を歌った津村 謙さんのご命日(十一月二十八日)を思い、昨年十一月十五日土曜日に、前回と同じ本郷三丁目の「三喜亭」で、標題のイベントを実施しました。

『上海帰りのリル』が流行した頃、実際に離れ離れになった許嫁(いいなずけ)をさがしながら、この歌を歌って歩いた若者が、実在したそうです。当日はその実話をベースにした書き下ろし小説『上海帰りのリル』を参加者にお配りして、若干の解説を交えながら、在りし日に「ビロードの歌声」と絶賛された津村さんの美声を堪能し、歌う時間も設けました。

昨年の某私立中学校入試の国語 問題文にも取り上げられていましたが、日本という国は自国の文化 に対して無知、無関心な面が強くあります。今後も本教室では一貫して、これらの文化を追い続ける方針です。なお、『上海帰りのリル』 を作詞なさった東條寿三郎さんは、本イベント後の十一月二十六日に逝去されました。つつしんでご冥福をお祈り申し上げます。     

「日本人初の世界チャンピオン 白井義男さん 」

新しい年になりました。二〇〇四年=平成十六年。新しい時代の生き方をさぐるのに、先達(せんだつ)に学ぶことはひとつの大きな指針であると思われます。

昨年十二月二十日に亡くなられた、白井義男さん。ボクシングファンにとっては神様のようなビッグネームです。昭和二十七年(一九五二)五月二十九日、日本人として初めてボクシングの世界タイトルを手にしたその偉業は(フライ級)、当時敗戦の喪失感に打ちひしがれていた多くの日本人に、かぎりない希望と勇気を与えたと語り継がれています。GHQ(連合国軍総司令部)の将校だったカーン博士の指導を受けて、米国籍のチャンピオンであるダド・マリノを打ち負かしたのも、何やらいわれのあることだったのでしょう。現在の小・中学生もよく知っている『あしたのジョー』などの劇画にも、白井さんの逸話は数多く登場しています。

二十世紀の日本人にかけがえのない夢を与えてくれた白井さん。その生きざまは、たとえばいまの中高年世代なら誰もが知っている具志堅用高さん(連続十三回防衛の日本記録を持つ世界チャンピオン)と共同経営されていたボクシングジム「白井・具志堅スポーツ ジム」を通した形で、現代の若者にも脈々と受け継がれているのでしょう。同じボクシングを志す若者ならば、「世界チャンピオン」の偉大さは、誰にもまして己が身に実感されるのだと思います。
拠る道のいかんを問わず、不世出(ふせいしゅつ)の先達の足跡(そくせき)は、今を生きる私たちにさまざまなことを教えてくれます。

Vol.3 「‰(パーミル)」

ふだんよく使う%(パーセント) に似ていますが、ちょっと違いますね。‰(パーミル)は、%が百分の一の割合をあらわすのに対し(=百分率)、千分の一の割合をあらわす「千分率」です。特に鉄道の勾配(こうばい)についてよく使われます。
一九九七年に長野新幹線の開業で廃止となった旧信越本線の横川~軽井沢間(通称『横軽』) は最大六六・七パーミルという急勾配の難所だったので(千メートル進んで六十六・七メートル高度が上がる)、明治二十六年(一八九三)の開通以来ここを越えるためにさまざまな工夫がなされていました。(詳細は『小説 碓氷峠』に)

~みすずかる信濃②

信濃の国、今の長野県は、面積が四十七都道府県の中で第四位(一万三千五百八十五平方キロメートル)の、とても広い県です(ちなみに一、二、三位は?)。
県都の長野市を中心とする長野盆地は、善光寺平とも呼ばれ、北信地方(ほくしんちほう=信州の北部の意)の要です。いっぽう南信地方は木曽谷、伊那谷に分かれ、その入り口が松本平(盆地)で、信州大学を擁する松本市は人口約二十万人、県下第二の都市として栄えています。ほかにも大糸線の通る安曇野や、諏訪湖のある諏訪盆地、新潟の津南や十日町へ至る豪雪地帯の飯山地方など、さまざまな土地の表情が感じとれます。そしていずれの土地にも共通しているのは、山が美しいこと。山梨県同様、長野県も海のない県ですが、それだけに北・中央・南の日本アルプスや、富士山に次ぐ巨大な単独峰の(木曽)御嶽山、江戸時代に大噴火があった浅間山など、雄峰・名山にはこと欠きません。

東京から長野県をめざすルートに、ひとつは前回も触れた新宿からの中央本

線。そしていまひとつは東京駅から長野行きの、長野新幹線「あさま」号を利用する手段があります。両方とも、日本でも有数の山岳路線ですから、とうぜん話題も豊富です。次回はそのあたりのことをお話ししましょう。

その三.「志摩観光ホテルと高橋さん」

真珠の養殖で有名な、三重県は志摩半島に位置する英虞(あご)湾。その入り口となる近鉄特急の終着駅賢島(かしこじま)からほどないところに、「志摩観光ホテル」があります。ご存知の方も多いでしょう。燦々たる陽光にきらめく白い建物には、旅する者をあたたかく迎えてくれる気品と誇りが満ちています。

ここの特色は、何と言ってもフランス料理のレストラン『ラ・メール』です。海の幸のフランス料理では世界一とも言われた高橋忠之シェフ独創の「あわびのステーキ」をはじめ、食通たちをうならせる数々のメニューが、窓ごしに見える英虞湾の風光とともに、他の追随をゆるさない美しい旅の一ページを彩ります。「日は麗らかに志摩のくに」「ひとひ、われ海を旅して」などの料理につけられたネーミングも、高橋シェフならではの芸術的なセンスそのものと言えるでしょう。

私は、新婚旅行ではじめてここに泊りました。その時の想い出は、部屋に用意して下さった「Happy Honeymoon」のあしらいのフルーツの美しさともど
も、今でも鮮やかにまなうらに浮かんできます。三年ほどしてふたたび訪れた際、『ラ・メール』の黒服のチーフが、新婚旅行の時の天気予報の話題をおぼえていて下さったことなども、ここでお伝えするべきもてなしのあたたかさのひとつだと思います

本紙の記事を書くために、高橋さんのご了解をいただこうと思い連絡しましたが、同ホテルの総支配人までつとめられた高橋さんは、二年ほど前に勇退されたとのことでした。けれども高橋さんが創造された海の幸のフランス料理の数々は、いまでも不滅のかがやきを放ちながら志摩観光ホテルに受けつがれています。また「伊勢海老のクリームスープ」などの逸品は、同ホテルからの取り寄せも可能ですし、近いところでは上野松坂屋(B1F)などでも入手できます。缶のふたを開けたとたんに海の香りがほとばしる逸品を、ぜひみなさんも味わってみて下さい。その際は、必ず説明通りの作り方で味わうことが大切です。

自転車は、左側

自転車は、道のどちら側を走ればいいの?近ごろは答えられない人が増えています。正解は、左側。理由は、車が左側を走るからです。時速五、六十キロで走る自動車と、時速二、三十キロの自転車がぶつかったら、どうなりますか?自転車が右側を走るのは、とてもあぶないのです。

中学1年生の時、漂情先生は通りすがりの見知らぬおじさんに、このことを教わりました。「何やっとる、死にたいのか!」と大きな声でどなられたので、その時はむっつりとだまりこんでしまいましたが、あとから考えると、おじさんの言葉がごもっとも。知らないことを教えるのが大人の役目。子どもは素直に、耳をかたむけてほしいものですね。 

高校無償化について

あけましておめでとうございます。今年は申(さる)年、平成四年生まれである、早生まれの現小学六年生と、現小学五年生(遅生まれ)のみなさんが年男、年女ということになりますね。はじめて干支(えと)がひとめぐりしたお子さんたちには、もうひとつ「おめでとう」の言葉を差し上げたいと思います。

一月、二月は、各学校の入試が目白押し。いよいよ受験シーズン本番です。「学歴」が人生の大部分を占めるものだとは、私は思いません。ただ子どもが大人に成長してゆく通過点に、いくつかの関門は存在するわけですし、一人一人が夢をかなえ、或いははぐくむために、できるだけ将来の選択肢を多く持てる、その人にとっての最良のポジションを得られるように応援したい。それが私ども学習塾の存在意義だと思うのです。
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漂うことば

春の海終日(ひねもす)のたりのたり哉(かな)

意味

(作)蕪村 

春の一日、海はおだやかに凪ぎわたって、陽光をかえす波がのたりのたりと規則
的なうごきをくりかえしている。海の様子もおだやかだが、それをゆったりと眺めている作者の心もまた、おだやかに安らいでいるのだろう。「ひねもす」は副詞で、
一日中、朝から晩まで、の意。与謝蕪村は摂津国(せっつのくに。今の大阪府北西部)の生まれで、江戸に下り、俳諧と絵画の両面で活躍した。その俳風にも色濃く絵画性が認められ、浪漫性とあわせて独自の味わいを醸し出している。

漂うことば

睦 月 (むつき) 
旧暦一月の別称。睦びとは、仲良くすること、むつまじくすること。賀詞交換や年始回りなど、日ごろの無沙汰を埋め合う時でもある。むつまじきなかに新たな誓いを。

漂うことば

Class.3
三英傑の生まれた県は?

歴史の勉強の時間です。戦国時代を終わらせた織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑。信長と秀吉は尾張(おわり)の国、家康は三河(みかわ)の国の出身。この両国は、今ではあるひとつの県となっています。さあその県の名前は?分からない人は地図帳で調べてみましょう。
<前号の答え> 群馬・栃木の両県は、古い国名を毛野(けぬ、あるいはけの)の国と言いました。都から近い方が上、前ですから、中山道を越えてきた群馬がかみつけぬ、栃木がしもつけぬ。やがて「毛」
の字が欠落し、上野=こうずけ、下野=しもつけ、となったのです。こうして毛の字は「両毛」「上毛」などの呼び方だけに残りました。